
講談の歴史
講談のはじまり
講談(こうだん)とは、日本の伝統話芸であり、語り手が高座の釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇で台をたたいて調子をとりながら、様々な物語を聴衆に対して読み上げるものです。
ただ物語を読み上げるのではなく、独特の語りから生まれる響きとリズムが、物語に臨場感を与え、聞く者を巧みに魅了します。
講談の起源はよくわかってはいませんが、戦国時代の御伽衆(おとぎしゅう)あたりからと言われています。
御伽衆は主君の政治や軍事の相談役となり、また武辺話や諸国の動静を伝えたりしていた側近でした。豊臣秀吉は読み書きが苦手であったため、多くの御伽集をかかえていたといわれています。
講談の隆盛
江戸時代になると、街角で太平記などの軍記ものを注釈を加えながら調子をつけて語る「辻講釈(つじこうしゃく)」が現れ、講談の原型になったと考えられています。
当時多くの人々は文盲であり、講釈は文字を読めなければできないものだったので、読み書きのできる武士や僧侶が講釈師になったといわれています。
記述に残っている最も古い講釈師は慶長年間の赤松法印であり、徳川家康の前で「太平記」や「源平盛衰記」を語ったと言われています。
現在東日本橋の薬研堀不動院に残っている「講談発祥記念之碑」はもともと浅草見付にあったもので、元禄時代に浅草見付辺りの町辻で太平記が講じられ、これが江戸講釈の発祥となったことが記されています。
元禄15年(1702)12月14日に、赤穂義士が吉良邸に討ち入りを行い、そのすぐ後から講釈場ができ、討ち入りとそれにまつわる物語が語られるようになりました(「赤穂義士伝(忠臣蔵)」)。
天明年間(1781~1789)になると、赤穂義士伝が盛んになる一方で、白浪物(しらなみもの、泥棒物)が流行します。文政年間(1818~1829)は江戸講釈の隆盛した時期であり、玉田玉秀斎、桃林亭東玉、鏑井北梅、東流斎馬琴など、多くの名人が生まれました。
幕末になると現在も活躍している「神田」や「田邉」などの流派が登場し、安政年間(1854~1859)には講釈場が200軒以上もあったといわれております。
明治以降
江戸末期から明治時代にかけても、講談は栄えました。
明治時代には「講談界中興の祖」といわれる二代目松林伯圓が登場します。『鼠小僧』などの白浪物を得意とし、「泥棒伯圓」と呼ばれるほど有名になりました。
中興の祖をしのぶ「伯圓忌」が現在でも催されています。
また、明治時代になってから、「講釈」が「講談」と呼ばれるようになります。
明治末期には立川文庫など講談の内容を記載した「講談本」が人気を呼びました。その中の1つに現在は大手の出版社として有名な「講談社」もあります。
戦後は大衆メディアの発達によって、講談は次第に衰退していった感が否めません。ラジオで講談が放送されたこともありましたが、最近ではほとんど聞くことができません。
一方、近年では女性講談師の数が増えたり、講談教室を催したり、アニメのネタを講談にするなど、次第に裾野が広がりつつあるようです。
講談の種類
講談は3つに大別されると考えられています。
1つ目は「修羅場」。戦や立ち回りなどの様子を語ったもので、もっともオーソドックスな講談調です。演目としては「赤穂義士伝」が最も有名。
2つ目は「怪談」。幽霊が登場する物語。「牡丹燈籠」、「四谷怪談」など。
3つ目は「世話物」。いわゆる人情話で、歌謡曲にもなった「お富与三郎」などが有名。
「講釈師 冬は義士 夏はお化けで 飯を食い」といわれるほど、主に冬にやる「赤穂義士伝」(討ち入りは冬に行われた)、夏の「怪談もの」は講談の定番です。
いくつかの物語は、歌舞伎や浄瑠璃などでも上演されています。

